海外の暗号小説
第59話 「ニイタカヤマノボレ1208」の受信電報 H20.4.24
大東亜戦争開始時、海軍連合艦隊は、その開戦命令を全軍・全艦隊に発信したが、その電報の受信紙が現存する。

昨年、12月8日の中日新聞に掲載されたのをネットで知り、機会があればその現物をこの眼で確認したいと思っていた。
それが、この4月8日に実現した。

所は、陸上自衛隊豊川駐屯地にある三河史料館。
電話で担当者に連絡しておいたので、気持ちよく案内していただいた。

史料館には、旧軍時代の史・資料、旧海軍工廠時代の史・資料、自衛隊の資料等数多く展示されていたが、「まず、その受信電報を見せてください」と頼み、一番奥に展示してあった拾進紙を確認した。
思ったよりも綺麗(所謂焼けがない)で、説明書とともに立派な額に収めてあった。

私の感じたところ、それは正に受信紙であり、送信紙ではない。しかもそれは艦内(「長門」)の関係者・艦長・幕僚が見たサイン等はなく、正文書ではなく「控え(予備)」のものである。

一般的に言えば、受信紙を複数枚複写(恐らくカーボン紙使用)しがら、受信電報の暗号を翻訳して記録すると思う。その受信紙の一部が個人の勤務録に挟んであったという。(不思議であるが。)
しかし、その詮索をしても今は意味はない。結果的にその受信紙がここに展示され、後世の私たちが見れると言う価値が大きい。
歴史的な史料であろう。

*参考に、当時の中日新聞に記事を紹介する。
「太平洋戦争の火ぶたを切った真珠湾攻撃から8日で65年を迎えた。開戦の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」を受信、記録した電文用紙が陸上自衛隊豊川駐屯地(豊川市)の三河史料館に展示されている。軍の機密文書が残っているのは極めて珍しく、貴重な資料として昭和、平成と平和な時を刻んでいる。
暗号は軍部からハワイ沖を航海する各戦艦などに一斉に伝えられた。展示の電文は通信隊で作戦通信の仕事をしていた赤羽根町(現田原市)出身の故中村文治さんが旗艦「長門」で受信し、同僚が記録した3通のうちの1通。縦26センチ、横17センチで発信者はGF(連合艦隊)長官、発令(昭和16年)12月2日1730(午後5時半)で、本文が「新高山登レ1208(12月8日)」とかいてあるのが分かる。
通常は破棄されるが、中村さんは保管、勤務録に挟んでいたのを恩給の手続きの際に見つけ、1970年(昭和45年)に駐屯地の三河史料館で預かることになった。犬山市に住む中村さんの長男は「父は戦争のことを話さない人だが、電文のことは少し聞いていた。自分は見たこともない」と話している。(中日新聞)」
 
 三河史料館に展示してある受信紙  ・説明文は、中日新聞に掲載された内容と概ね同じ。
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