日本経済新聞の文化欄に、作家・平野啓一郎氏が「揺らぐ神・潜む神」十選というコラムを掲載している。
この記事は、平成20年4月25日(金)の第8回目の記事である。
小説「ダ・ヴィンチ・コード」の教訓は、芸術作品は、見る人次第でどうにでも解釈できると言うことである。
イエスの左手のヨハネが、女性のように見えるというのは、初めてこの絵を目にした小学生のような感想だが、通説では、髪を束ねていないのは、男性の記号とされており、ラファエロが描いても、ヨハネはこうした極めて女性的な風貌である。
しかし、未完成の多いダ・ヴィンチにしては、結果的にアダとなったテンペラ画法も含め、かなりの意欲を持って取り組んだ大作であることは間違いなく、そうして気にしだすと、何から何まで気になってくる。
(以下略) *(当然ながら、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に関することである)
この記事を読み、極めて簡単に謎解きが終わり、あの「ダ・ヴィンチ・コードのブーム」は何だったのだろうかと思う。
あの頃(もう2年も前のことになるのだ)、テレビ・新聞・雑誌あるいは便乗した謎解き単行本等の多くは、このヨハネが女性であると言う小説の中の問いかけからダ・ヴィンチの謎解きが始まったのだから。
もし、平野氏が当時、このような記事を発表されたら、関係者はどのような反応を示したのだろうか?
もっとも、あくまで小説であり、面白おかしく書き、読者を謎解きに走らせれば、作者としては目的を達成し、満足であろう。しかし、各個人はともかく踊らされたマスコミ・出版会はどうなのであろうか?
所詮は、商売! 稼げたから満足か!
学問の世界での論争ならともかく、フィクションの世界では、いかに面白く、読者をひきつけるかが課題であろうから。
楽しめたのだから良いのだろう。また、それなりに暗号解読の面白さを満喫できたのだから。 |