暗号戦史
「ネ行 作品」
作品名 寝返ったソ連軍情報部大佐の遺書     (「ペンコフスキー機密文書」:改題)
著者名 オレグ・ペンコフスキー  (Oleg Penkovskiy)  (編:フランク・ギブニー、訳:佐藤亮一)
発行日:1989.8.25
出版社:集英社
形式:集英社文庫

初出:1966;集英社
  「ペンコフスキー機密文書」
目次  (章の項目タイトルなし)
第1章 
第2章 
第3章 
第4章 
第5章 
第6章 
第7章 
ストーリーの概要
(裏表紙から)
1963年5月、ソ連陸軍参謀本部中央情報部(GRU)大佐が反逆罪で銃殺刑を宣告された。コーカサスで生まれ、キエフ砲兵学校、フルンゼ陸軍士官学校を出て、31歳で大佐に昇進したエリート将校だった。
彼は情報活動に携りながら、西側にソ連の軍事情報を提供していた。生前にひそか書き綴っていた膨大な極秘メモが、処刑後秘密ルートで西側まで運ばれ、公刊された。

(カバー表)
私の名はオレグ・ウラジミロビッチ・ペンコフスキーである。私は1919年4月23日コーカサス地方のオルジョニキジェ市(旧ウラジカフカズ)の俸給生活者の家庭で生まれた。
国籍はロシア人、職業は軍情報大佐である。私がこれから始める手記は、私の生活を取り巻く体制に関する私の考えと、その体制に対する私の反抗を説明するためである。私はこれを西側の人々に読んで貰いたい。なぜなら私の経験を通じて、西側の人々は多くを知ることが出来るからだ。

(カバー裏)
〈私の知るペンコフスキー〉ペンコフスキーは私と最初の接触をする前に数ヶ月間いろいろと考えていたようだ。
彼は正当な理由を信じたがために自ら進んでスパイ行為に出てこの孤独な生活の恐るべき緊張に飛び込んだのだ。彼は言わば英雄的人物であった。私は一生涯彼を忘れられないだろう。 
グレヴィル・ウィーン (ペンコフスキーと共に裁判にかけられ、8年の刑を宣告されたイギリス人実業家)

 時代は1960年代の話なのでもう50年近く前の話である。

目次の細部

私の知るペンコフスキー:グレヴィル・ウィーン
はじめに 権力の座を揺さぶる文書:フランク・ギブニー
第一章 私の私生活を取り巻く体制
第二章 スパイ、破壊活動の巨大な機構、 GRUの暗黒の世界
第三章 アメリカにおけるソ連スパイ網、 プリホートコ講述(秘密情報員の連絡 直接連絡 秘密会合 情報将校の直接連絡に関する注意 「仲介者」と「生きた隠し穴」 間接連絡 現地駐在部との無線連絡 隠し場所の秘密連絡 郵便、電報の秘密利用 電話の秘密利用 新聞の利用と合図の方法 ソ連本部との直接連絡 平和時の機密連絡体制 戦時の機密連絡体制 機密情報網の操作 結論 )
第四章 西側情報員と接触、 ペンコフスキーの委員会
第五章 二重生活へ天賦の才、 駐在武官婦人と連絡、 スパイノート(アメリカにおける情報活動 海外のスパイ活動とKGB)
第六章 影の地獄の生活、 私は監視されている、 核兵器とミサイル
第七章 迫る監視の目、 モスクワと海外の波紋(反ユダヤ主義 フルシチョフと中国)
あとがき:佐藤亮一
暗号について
非合法活動員(スパイ)の連絡手段として、暗号や秘密の目印・合図等を用いる手段・方法の例を諸所に記述している。
例:合言葉
・あらかじめ言葉なり文句なりを決めなければならない。このあらかじめの言葉は、美術館、映画館、図書館、記念碑の名前や、映画、図書、新聞、雑誌のタイトルなどが使える。この場合、発する言葉と答える言葉は、その内容と発音が簡単明瞭なものでなければならない。しかし、英語でこれを発音するのは、物によっては難しい。この点ではアメリカに着いたばかりのわが情報将校にとっては二重の困難があるかもしれない。

〔編者注〕として、「合言葉等が書いてあったと思われる1ページが、元の記録から行方不明になっている。」とある。:残念ですね。
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